「なぜ人を殺してはいけないのか?」を考える

【目次】

  1. はじめに
  2. 「人を殺してはいけない」絶対的な理由などない
  3. 「なぜ○○してはいけないのか?」という質問はナンセンス
  4. 「自由」には「責任」が伴う
  5. 「常識」には「背景」がある
  6. まとめ

はじめに

子供などが「なぜ人を殺してはいけないの?」という質問をしてくることありますよね。 あれに的確に答えられる人ってどれだけいるんでしょうか(^_^;。 ていうかそもそも、この質問は質問としてどうなんでしょうか…

またそこから一般化し、「なぜ○○してはいけないのか?」という質問全般について、 また「自由」と「常識」についても考えてみました。

※本コラムは私の個人的な見解を述べたものです。 一つの意見としてお読み頂ければ幸いです。

「人を殺してはいけない」絶対的な理由はない

実は、「人を殺してはいけない」という絶対的な理由はありません。

「あれは良い」「これは悪い」というのは「価値判断」なのであり、 事実と違って主観で決まります。 主観で決まる以上、「絶対的にこれが正しい」という解は存在しないのです。

あるのは多数の同じような主観が寄り集まって形成された「常識」と、 多数の主観を拠り所に制定された「法律」や「ルール」だけです。

よって、誰も「人を殺してはいけない」ということを 絶対的な善として説明することなどできないのです。

極言すれば、殺したければ殺せばよい。 自分の行動は自分で決めることです。

しかし、です。 殺人を犯すと、法律で罰せられることになっています。 牢屋に数十年入るか、場合によっては死刑になるかもしれない。

つまり、人を殺すと、自分も損をする仕組みに世の中はなっているのです。 世の中は、善悪ではなく、損得のつじつまが合うように構成されている のです。

それでも人を殺したければ、どうぞご自由に、ということです。 殺すか殺さないかは本人の判断ですから。

つまり、 「なぜ人を殺してはいけないの?」 に対する答えは、 「人を殺せばあなたが罰を受けるけど、それでも良ければご自由に」 です(笑

では、 「なぜそういう法律になっているの?」 という問いについてですが、それは大多数の人間が、自分が殺されたくないから、 「人を殺したら重い罰を受けるルールにしよう」 と決めたからです。 決めるプロセスは民主主義やら選挙やら法治国家の話になりますので割愛しますが。

逆に言えば、紛争地などの無法地帯では、人を殺しても裁かれません。 「人を殺せば自分が罰を受ける」という決まりがない所では、 平気で人が人を殺しているわけです。

「なぜ○○してはいけないのか?」という質問はナンセンス

一般化してみると、結局、 「なぜ○○してはいけないのか?」という質問自体がナンセンス なのです。

なぜなら「○○をするかどうか」は本人の自由であり、「いい」「いけない」の問題ではないからです。

ただし、それをした結果、本人が罰せられるかもしれない。 罰までいかなくても、社会的な制裁があるかもしれない。

例えば、「なぜオフィスで大声で騒いではいけないのか?」という質問をする人がいたとします。 その答えは、 「大声で騒いでみんなの仕事の邪魔して白い目で見られて嫌われてクビになっても良ければどうぞご自由に」 です(笑

それを「いい」「いけない」の二択に持ち込もうとしたところで、 はじめからそこに絶対的な答えなど無いのですから、ナンセンスです。

「自由」には「責任」が伴う

そもそも、子供が純粋に疑問をぶつける場合を除き、 「なぜ○○してはいけないのか?」と問う人は、 潜在的に、「自分は何でも自由にやりたい」「ルールや常識に縛られたくない」 といった意識があるのだと思います。

どういう意識を持とうが個人の自由なのでそのこと自体は別にいいのですが、 しかし一方で、自由には責任が伴うのです。 時々、「自由と権利」をセットで主張する人がいますが、組み合わせ方が間違ってます。 「自由と責任」もしくは「権利と義務」がセットです。

人は自由に行動することができるが、その行動には責任が伴う。 それを忘れてはいけません。

自分の行動に対する責任を考えれば、「なぜ○○してはいけないのか?」に対する答えは 自分の中でおのずと導き出されるはずです。

「常識」には「背景」がある

さて、「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜオフィスで大声で騒いではいけないのか?」 という問いについて考えてきましたが、 世の中では、「人を殺してはいけない」「オフィスでは静かに」 といった話は、もはや議論するまでもなく「常識」として扱われています。

では「常識」とは何なのか。

常識とは、長い期間をかけて、自由と責任を秤にかけながら、 多数の人達で紡がれてきた共通意識のようなものであると思います。

つまり、「常識」には、それが常識となった「背景」があります

  • 人を殺す人がいる→みんな自分は殺されたくない→人を殺してはいけないことにしよう
  • オフィスで大声で騒ぐ→みんなの仕事の邪魔→オフィスでは静かにしよう

ということです。

で、問題が起こるたびにいちいちその過程をなぞるのは時間と労力の無駄なので、 大多数が同意するものを「常識」という形で共有し、世の中の営みを効率化しているわけです。

たまにそれを理解できない人がいて、 身勝手な行動を取りつつ「自分は常識が嫌い」などと言ったりします。

もちろん、かつての常識が世に合わなくなることはあります。 かつての常識を破って新しいビジネスに挑戦し、成功を収める人もいます。 そこには明確な目的意識があり、結果として新しい常識を作っている。 それは良い常識の破り方です。

しかし、だいたいにおいて「自分は常識が嫌い」などとのたまう人間は、 「自分に都合の悪いルールを認めたくない」というだけです。 世の常識が、自分にとって都合の悪い時だけ「それはおかしい」と文句を言う。 逆に常識が、自分に都合の良いルールであれば、何も言わない。

常識を否定することにある種のカッコ良さを感じているのかもしれませんが、 それはただ単に自己中に陥っているだけです。 周りの人間はいい迷惑です(^_^;

まとめ

  • 「なぜ人を殺してはいけないの?」に対する答えは、 「人を殺せばあなたが罰を受けるけど、それでも良ければご自由に」
  • 「なぜ○○してはいけないの?」という質問自体がナンセンス
  • 「自由」には「責任」が伴うことを忘れてはいけない
  • 「常識」の「背景」を理解するように努めよう
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